若鶴のあゆみ
若鶴のあゆみ

若鶴の起源

「若鶴」という酒が生まれたのは、徳川時代も末期の文久2年(1862年)のことです。 はじめ越中の豪農が加賀藩の免許をうけて酒造りをはじめたのを、明治20年頃、桜井宗一郎家の一族がこれを継承して現在の本社所在地で酒造業を営みました。それを明治43年に、初代稲垣小太郎が譲り受け、長男彦太郎(2代稲垣小太郎)を片腕に経営にあたったのです。
当初の造石高は300石にすぎず、経験未熟・設備不全のため苦杯をなめることもありましたが、一族の総力を結集して技術の向上と施設の改善に努めた結果、酒造界の好況もあって業績を伸ばし、大正5年には造石高1200石余にまで進展しました。

会社設立

大正3年に起った第1次世界大戦は、日本に未曾有の好景気をもたらしました。酒類の需要も急激に伸びたため、個人経営では到底対応ができず、大正7年10月23日に資本金拾万円をもって若鶴酒造株式会社を設立したのです。既設の約千石仕込み施設のほかに、醸造倉庫一棟を増設し、新たに酒桶等諸器具を整備して、初年度1,453石を醸造しました。

大正時代

大正7年11月に米騒動が全国で蜂起し、醸造米の仕入れに難渋しましたが地方の優良酒造用米を集めて仕込みにかかることができました。大正8年は大戦景気の爛熟期であり、全国清酒造石高が新記録を樹立するも、翌年の大正9年には大暴落をしました。しかし若鶴酒造はこの反動不景気にこそ、設備の拡充強化を敢行すべきと信じ、工業用地の拡張、倉庫・付属建物の増築、近代的な精米設備の導入をはかりました。また、その頃より東京を中心とする中央市場への進出もはじめています。全国的な酒造業界の不況の一方で、設備改善の効果も現れ、当社は名実共に北陸第一の酒造会社となりました。

建物01

昭和初期

昭和2年に起った金融大恐慌によって、若鶴酒造は創業以来最大の苦難に遭遇しました。苦境を脱出するため、巨費を投じて清冽な地下伏流水の汲上装置を完備して品質改良に努め、また、新しい販路の開拓を行いました。従来の東京、東海地方のほか、新たに樺太方面にまで市場を拡大した結果、売上高はうなぎ登りに伸長していきました。

戦時統制

しかし、昭和12年に勃発した日華事変によって、日本の経済は完全に戦時体制に組み入れられるに至りました。戦争による人と物の大量消耗、特に米作の減収は酒造業者に深刻な打撃を与えたのです。
昭和14年には第二次世界大戦が開戦しました。国内は人的資源も主要原料も極度に枯渇し、若鶴酒造も多年苦心して培った販売ルート(特約店)が消滅し、配給と統制組合卸し一本となり、商標もまた無用の長物となりました。

大戦以後

第二次世界大戦の終結後、行きづまった局面を打開すべく、清酒に加えて、蒸留酒、合成酒、ぶどう酒ウイスキーの製造にも進出し、売上を拡大させていきました。
その最中、昭和28年5月11日夜半に当社アルコール工場より火を発し、施設の大半を消失するという災厄に遭遇しました。しかし、社長以下全従業員の努力により、短日月に再起操業を果たすことができたのです。

建物02

昭和30年から40年代

昭和37年の酒類の減税とその後に実行された所得倍増計画により酒類の消費量は大幅に増大するとともに、高級酒への指向も高まりました。
若鶴酒造は、清酒を主力商品として設備を改善して増産体制を確立すると共に、大正蔵(越後杜氏)と昭和蔵(南部杜氏)それぞれの長所を生かして芳醇な優良清酒を世に送り出します。それが大衆の支持を得て、需要が一段と促進されました。同年には、社長 稲垣小太郎が、北陸3県におけるコカ・コーラの企業化に名乗りを上げ、大正蔵の一室にて北陸コカ・コーラボトリング株式会社を設立しています。

建物03

昭和50年から60年代

昭和55年に新精米工場を、昭和60年には新研究室・新蒸留酒工場を完成させます。さらに昭和63年には本社、新社屋を完成させ、短期間のあいだに大型の設備投資を行いました。こうして生産体制を磐石し、新しい時代へと進んでいきます。

銘酒「若鶴」を生んだ歴史ある大正蔵を再生

建物04

文久2年の創業以来、米騒動や第1次世界大戦など数々の試練を乗り越え、より多くの需要に応えるために建築された大正蔵。越後杜氏による酒造りが行われ、銘酒「若鶴」は人々を魅了する酒へと成長しました。
時は流れ平成に入ると、大正蔵は歴史的建造物として注目を集めるようになります。平成22年には、富山県教育委員会により「とやまの近代歴史遺産百選」に選定。翌年には砺波市教育委員会より「砺波市ふるさと文化財」に登録されました。
このような流れの中、若鶴酒造は創業150周年を記念し、大正蔵の改修を決定。酒造りの原点であり、歴史的価値も高い大正蔵を、「酒造りの精神を次世代に継承し、時間軸の中で生きる喜びを実感できる建築に再生する」ことをコンセプトに、銘酒「若鶴」の足跡を伝えるゲストハウスへと再生しました。漆喰の壁、瓦葺きの屋根、煉瓦造りの煙突跡など当時の面影はそのまま、酒造りの歩みを今に伝えています。

建物04

北陸最古のウイスキー蒸留所

建物05

若鶴酒造には、戦中・戦後の清酒製造が激減した時代を、蒸留酒製造に活路を見出すことで乗り越えてきた歴史があります。艱難期を支えたウイスキー造りの象徴というべき三郎丸蒸留所も、平成に入り老朽化が進んできました。
その状況を受け、平成28年、5代目を中心とした改修プロジェクトが立ち上がります。「北陸最古のウイスキー蒸留所を、そしてこれまで続いてきたウイスキー造りを途絶えさせるわけにはいかない」。強い信念のもと、改修費用を募るクラウドファンディングに挑戦。結果として、目標額の2500万円をはるかに超える463名から3825万5000円という大きなご支援をいただきました。
平成29年、三郎丸蒸留所は毎年1万人以上が訪れる、“北陸でただひとつの見学のできるウイスキー蒸留所“へと生まれ変わりました。「富山のクラフトウイスキーを、世界に愛されるウイスキーへ」という壮大な夢を掲げ、日々新しい挑戦を続けています。

建物05

自社ブランドを再編 若鶴酒造、新時代の幕開け

平成30年、清酒の看板銘柄「若鶴」を「瑤嶺(ようのみね)」「瑤雫(ようのしずく)」の2種に統合し、「苗加屋」「玄」と合わせた3大ブランドへの再編を行いました。各ブランドごとに原料や造りにもさらなる創意工夫を加え、これまで以上にこだわりの味わいを提供していく決意を新たにしました。

いつの時代も、どのような状況下でも、飲み手のみなさまに喜ばれる「美味い酒」をめざして――。
若鶴酒造はこの砺波の地で、これからも1つ1つ歴史を刻んでゆきます。